「地域活性化」や「まちづくり」という言葉が、当たり前のように使われるようになりました。
学生が地域に入ってフィールドワークをしたり、若手デザイナーがおしゃれな空間をプロデュースしたり…一見、とても素晴らしい活動に見えますよね。
でも、その裏側で「正直、迷惑なんだよな…」とため息をついている地域住民がいるとしたら、どうでしょうか?
良かれと思ってやったことが、なぜかすれ違ってしまう。
今回は、そんな地域づくりに潜む「独りよがり」のワナと、そのすれ違いをなくすための「重要なキーパーソン」についてお話ししたいと思います。
なぜ?学生の「調査」が地域を疲れさせるワケ
やる気に満ちた学生が地域を訪れ、住民にヒアリングをする。これは、多くの大学で行われている「地域フィールドワーク」の光景です。
しかし、これがしばしば地域住民の負担になっています。一体なぜでしょうか?
指導者が「お客様気分」で地域を知らない
一番の問題は、学生を指導する街づくりコンサルタントや大学の教授、下請けコーディネーター自身が、その地域を深く理解していないケースが多いことです。
- 地域の歴史や人間関係を知らないまま学生を送り込む。
- 「地域課題を解決してあげる」という上から目線を持っている。
- 学生への教育が不十分で「地域に学ぶ姿勢」を教えていない。
指導者がこれでは、学生も「調査対象」としてしか地域を見ることができません。
例えるなら、あなたの家にいきなり知らない学生がやって来て、「この家の問題点を教えてください!解決策を考えてあげます!」と言っているようなものです。
失礼だと感じませんか?
「またその質問?」繰り返される一方的なヒアリング
地域住民からすると、毎年違う大学の、違う学生がやって来ては、同じような質問を繰り返します。
「どんなことに困っていますか?」 「この地域の魅力は何ですか?」
彼らはレポートを書いたら、もう二度とこの地を訪れないかもしれません。住民にとっては、貴重な時間と善意を「消費」されているだけ…そんな無力感が募ってしまうのです。地域は、学生の学びのための「無料の教科書」ではないのです。
デザイナーの「おしゃれな提案」が浮いてしまう現実
次に、デザイナーが関わる地域づくりについてです。彼らが作る美しいデザインや、洗練された空間は、確かに魅力的です。
しかし、ここにも大きな落とし穴があります。
机上の空論と現場の「温度差」
デザイナーは、課題を「デザイン」で解決しようとします。
例えば、「若者が集まる場所がない」という課題に対し、「おしゃれなカフェを作りましょう!」と提案する。
計画書は完璧で、完成予想図はとても魅力的です。
しかし、「そのカフェ、誰が毎日運営するの?」という最も重要な視点が抜け落ちていることがあります。
- 運営する人の人件費は?
- 地域の人は本当にカフェを求めている?(公民館の畳で茶飲み話がしたいだけかも…)
- イベントの時だけ盛り上がって、普段はガラガラ…なんてことにならないか?
現場のリアルな営みや人間関係を無視した「机上の計画」は、地域の実情と大きなズレ(不均衡)を生み、結局は誰も使わない「ハコモノ」になってしまう危険性があるのです。
見た目の良さに惹かれる若者の危うさ
こうした「おしゃれな地域づくり」は、SNS映えもするため、若者や学生の心を掴みやすいという特徴があります。
「あのデザイナーが関わっているなら、面白そう!」 「こんな素敵な場所で活動できるなんて、最高!」
しかし、彼らはプロジェクトの「キラキラした部分」にだけ惹きつけられ、その裏にある地道な作業や、泥臭い人間関係の調整から目をそむけがちです。イベントを手伝ってチヤホヤされ、満足して帰っていく。それでは、地域に根付くはずがありません。
結局、見た目のデザインと地域住民の日常との間には大きなギャップが生まれ、「私たちのための地域づくりじゃなかったね」という寂しい結果に終わってしまうのです。
すれ違いをなくす鍵は「地域の通訳者」というキーパーソン
では、どうすればこうした悲しいすれ違いを防げるのでしょうか?
その答えは、「地域との通訳的な人材」を見つけ、その人と共に活動することです。この存在こそが、プロジェクトの成否を分ける最も重要なキーパーソンと言えます。
「通訳者」ってどんな人?
「通訳者」とは、単に言葉を訳す人ではありません。
- 地域側の言葉(方言、価値観、暗黙のルール、人間関係)
- よそ者側の言葉(専門用語、ロジック、プロジェクトの目的)
この両方を深く理解し、両者の間に立って「文化」や「感情」まで翻訳してくれる人です。
例えば、このキーパーソンは、こんな風に両者の橋渡しをします。
学生に対して: 「いきなり『課題は何ですか?』なんて聞いたらダメだ。まずはお茶飲み話に付き合って、畑仕事を手伝ってからだよ。そうすれば、ポロッと本音を話してくれるから。」
デザイナーに対して: 「その計画は素晴らしいですが、この地域ではまず区長さんと○○さんにお伺いを立てないと、誰も協力してくれませんよ。順番が大事なんです。」
地域住民に対して: 「あの若者たちは、別に地域をバカにしてるわけじゃないんです。ただ、やり方を知らないだけ。なんとか地域の力になりたいっていう気持ちは本物なんですよ。」
このように、お互いの誤解を解き、スムーズなコミュニケーションを可能にしてくれる潤滑油のような存在。
それが「地域の通訳者」なのです。
どうすれば、地域と本当に関われるのか?
これから地域に関わろうと考えているあなたが、まずやるべきこと。
それは「すごい提案」を考えることではなく、「信頼できる通訳者」を探すことです。
Uターンしてきた若者、地元のNPO職員、外の世界も知っている役場の人、地域のことを何でも知っている世話好きな商店主…。
そうしたキーパーソンを見つけ、敬意を払い、パートナーとして連携すること。それが成功への一番の近道です。
そして、最終的にはあなた自身が、地域に深く入り込み、よそ者の視点も持ち合わせた「通訳者」の一人になることを目指すべきなのかもしれません。
地域づくりは、派手なイベントや即効性のある解決策を求めるものではありません。
そこに住む人々の日常に寄り添い、共に汗を流し、時間をかけてゆっくりと関係を育んでいく、地道な営みなのです。
どうか、「独りよがりなヒーロー」ではなく、地域にそっと寄り添える「良き隣人」を目指しましょう!
それは「手柄の横取り」ではない!「魂の略奪」である!!
もし、あなたが24年という歳月をかけ、丹精込めて豊かな果樹園を育て上げたとします。
色とりどりの果物が実り、多くの人がその恵みで笑顔になった、まさにその収穫の直前。
ある日突然、有力者を名乗る人物が現れて、こう宣言します。
「この素晴らしい果樹園は、私が作ったものだ!」
そして、あなたの存在そのものを否定し、まるであなたが最初からいなかったかのように振る舞い、果実だけをすべて奪い去る。
挙句の果てに管理を放棄し、果樹園を荒れ放題にしてしまったとしたら……。
あなたはどう感じますか?
これは、単なるたとえ話ではありません。
私、岩見信吾が、この岩手の地で24年以上にわたり続けてきた社会貢献活動、NPOボランティア、そしてNPO団体の運営支援という活動の現場で、実際に起きたことなのです。
これは「ひどい事」という一言では片づけられない!!
私の24年以上にわたる活動の成果を奪い、その活動を無責任に投げ出し、そして何より、私という人間がNPO活動に存在しなかったかのように扱う行為。
これを「ひどい事」という一言で片づけてはいけません。
これは、一人の人間の人生という時間を、土足で踏みにじる行為です。
汗も涙も、喜びも苦悩も、すべてが詰まった24年という歴史のページをビリビリに破り捨て、「無かったこと」にする歴史の改ざんです。
その人が地域に捧げた善意や情熱、築き上げてきた信頼関係を根こそぎ奪い去る、まさに「魂の略奪行為」と言っても過言ではないのです。
想像してみてください。これがどれほど残酷で、非人道的な行為であるか?
【マラソンランナーの悲劇】
42.195kmを血の滲むような努力で走り抜き、ゴールテープの目前まで来たランナーを押しのけて、ずっと待機していた人物がゴールし、すべての喝采を浴びる。
それどころか、元々走っていたランナーは「コースを走っていなかった」ことにされてしまうのです。
【我が子を奪われる親の痛み】
愛情を込めて育て上げた我が子の名前を、ある日突然、他人が自分の子として戸籍を書き換え、自らの功績として自慢し始める。
そして、本当の親の存在は、誰の記憶からも消し去られようとするのです。 これが、どれほど残酷で非人道的な行為であるか、お分かりいただけるでしょうか。
これは単なるビジネス上の成果の横取りとは次元が違います。
人の善意と人生そのものを否定する、最も卑劣な行為の一つです。
なぜ、このような人物が地域のリーダーに向いていないのか?
そして今、このような行為を平然と行った人物が、地域のリーダーになろうとしている、あるいは既になっているとしたら、私たちはその現実を直視しなければなりません。
なぜなら、その人物はリーダーとして致命的な欠陥を抱えているからです。
- 他人の痛みがわからない 人が時間と情熱を注いだものを平気で奪い、その存在を無かったことにできる人間は、他人の痛みに共感する能力が決定的に欠如しています。
これは、市民一人ひとりの暮らしや想いを背負うリーダーには、絶対にあってはならない資質です。
- 誠実さの欠片もない 他人の功績を盗んで自分のものだと言い張る不誠実さ。
これは、市民に対しても平気で嘘をつき、情報を隠蔽し、自分に都合の良いように事実を捻じ曲げる危険性を示唆しています。
そのようなリーダーの下では、公正で透明な地域運営など望むべくもありません。
- 感謝と尊敬を知らない 地域社会は、名前も知られていないような多くの人々の地道な努力と貢献によって成り立っています。
その努力を踏みにじる人間は、市民への感謝や尊敬の念を持ち合わせていません。
自分より弱い立場の人、声の小さい人を切り捨て、使い捨てる政治を行うことは火を見るより明らかです。
- 責任感の欠如 美味しいところだけを奪い、面倒になった途端に活動を無責任に投げ出す行為は、リーダーの根幹である「責任感」の無さを露呈しています。
困難な課題や災害が起きた時、真っ先に地域や住民を放り出すのは、このような人物です。
人の努力の結晶を土足で踏みにじり、その上に自分の城を築こうとする人物は、リーダーではありません。
地域社会という共同体を破壊する
「略奪者」です。
「知らなかった」では済まされない。応援するあなたの社会的責任
「あの人は良い人そうだから」「詳しいことは分からないけど、応援している」
その一言が、どれだけ重い責任を伴うか、私たちは考えなければなりません。
事実を知らずに、あるいは知ろうともせずに、こうした人物を応援することは、不正行為への加担に他なりません。
あなたは、丹精込めて果物を育てた農家からすべてを奪った泥棒が売る果物を、「美味しそうだ」と言って買うのと同じ過ちを犯しているかもしれません。
あなたは、歴史の改ざんに「その通りだ」と拍手を送る群衆の一人になっているかもしれません。
あなたの無邪気な「いいね!」や「応援」が、不誠実な人物に「お墨付き」を与え、その卑劣な行為を正当化し、新たな被害者を生む力になってしまうのです。
未来を選ぶのは、私たち一人ひとりです!
地域の未来を選ぶのは、私たち一人ひとりです。
リーダーを選ぶという行為は、私たちの暮らしと子どもたちの未来を託す、極めて重い決断です。
表面的なイメージや耳障りの良い言葉に惑わされてはいけません。
その人がこれまで「何をしてきたか」、そして「どのように人と向き合ってきたか」。 その行動の積み重ねこそが、その人物の本質を表します。
どうか、あなたの清き一票、あなたの善意からの応援が、「魂の略奪者」を生み出す力とならないよう、真実を見抜く目を持ってください。
誠実な人間が、その努力が、正当に評価される社会。
人の痛みがわかるリーダーが、地域を導く社会。
そんな当たり前の社会を築く責任が、私たち一人ひとりにあるのです。
私を「無かったこと」にした、「特定非営利活動法人 いわて連携復興センター」、「特定非営利活動法人 いわてNPOフォーラム21」の代表や理事、事務局長そしてその組織に加担する人物を、私は絶対に許しません。
一人の人間の功績と人格、そして費やした人生の時間を社会的に抹殺しようとするこの行為は、個人の尊厳を著しく踏みにじる、断じて許されない「人権侵害」です。
何も考えず「無邪気」応援するあなたの姿勢、今すぐ改めませんか?
多くのみなさんのご理解、ありがとうございました。
岩見 信吾
次回は、政治活動団体のクラウドファンディングの危険性について論説します。
長きにわたり、私はこの愛する三陸沿岸・岩手県の地で、声なき声に耳を澄まし、誰かの「助けて」に手を差し伸べるNPOの支援活動をライフワークとしてきました。
学生時代から24年以上、決して短くない歳月です。
そして、あの未曾有の悲劇、東日本大震災・津波の災害からの道のりを、仲間たちと手を取り合い、涙と汗にまみれて歩んできた日々。
盛岡に移り住み、岩手県NPO活動交流センター副センター長として、その職責の重みを噛み締めた9年間。
これらは、私の人生の大きな一部であり、揺るぎない誇りです。
しかし、その一つひとつ丁寧に積み上げてきた誇りのレンガを、人物達は土足で踏みつけ、粉々に砕き、いとも簡単に「私を無かった事、そして居なかった人」にしました。
実績を乗っ取り手柄を泥棒し、しかも数年でめちゃくちゃにして投げ出すという人物も居ました。
また、私一人のことであれば、まだ歯を食いしばって耐えられたかもしれません。
ですが、断じて許せない一線があります。
その人物は、あろうことか、私たちが共に支え合ってきたハンディキャップのある仲間を、大勢の人がいる公の場で嘲笑し、尊厳を踏みにじったのです。
弱い立場の人を守り、その声にこそ耳を傾けるのが、人の上に立つ者の務めではないのでしょうか。それを一笑に付し、見世物にする。その光景は、私の脳裏に焼き付いて離れません。
何度、表面的な謝罪の言葉を並べられようとも、私の心に刻まれた怒りと悲しみの傷は、未来永劫癒えることはありません。これは、個人的な恨みなどという陳腐な言葉で片付けられる問題ではないのです。
人としての「品格」の問題です。
今、その人物は、輝かしい未来を語り、市長の座に手を伸ばしています。
私は問いたい。
私の24年を、仲間の尊厳を、そして震災から立ち上がろうとする人々の祈りを踏み台にするような人物に、私たちの街の未来を託す資格が、本当にあるのでしょうか?
そして、その候補者を「良い人そうだ」「変えてくれそうだ」というイメージだけで応援している皆さん。どうか、一度だけ立ち止まって、冷静に考えてみてください。
聞こえの良い公約の裏に隠された、その人の「本性」を。
権力のない、弱い立場の人間に向ける、その人の「本質」を。
あなたの清き一票は、誰かの人生を応援するためのものであって、誰かの尊厳を傷つけた過去を帳消しにするためのものではないはずです。
無責任な応援は、時として刃となり、誰かを深く傷つけ、街の品格そのものを貶めることに繋がりかねません。
どうか、甘い言葉の仮面に惑わされないでください。
その人が本当に信頼に値する人物なのか、その魂の奥底を見つめてください。
これは、私の抵抗であり、未来への警鐘です。
この魂の叫びが、賢明なるあなたの心に届くことを、切に願っています。